札幌高等裁判所 昭和44年(ラ)35号 決定 1970年4月20日
抗告人(原告) 林長太郎
相手方(被告) 日動火災海上保険株式会社
主文
原決定を取消す。
相手方の移送申立を却下する。
理由
抗告人の抗告の趣旨および理由は別紙のとおりである。
そこで判断するのに、抗告人の提起した本件訴(釧路地方裁判所帯広支部昭和四三年(ワ)第一〇九号事件)は、抗告人が、保険業者たる相手方との間で、いずれも抗告人を被保険者として、(イ)保険金額五〇〇万円、保険期間昭和四〇年一一月三日から昭和四一年一一月三日まで、(ロ)保険金額三〇〇万円、保険期間昭和四〇年一一月六日から昭和四一年一一月六日までの各普通傷害保険契約を締結し、同年一一月一九日抗告人が被つた左手関節上部切断の傷害により保険事故が発生したとして、右各契約にもとづき、保険者たる相手方に対し、契約所定の計算による保険金合計四七二万八、〇〇〇円の支払を求めるというものであるところ、相手方提出の「普通傷害保険契約申込書」、「普通傷害保険契約契約証」各二通および当事者双方の主張の全趣旨によると、前記各保険契約は、抗告人において昭和四〇年一一月三日および同月六日いずれも相手方が用意した「普通傷害保険契約申込書」用紙に所要事項を記入してこれを相手方に交付して申し込み、相手方が右申込を承諾することによつて成立したものであり、右各「申込書」には「貴会社傷害保険普通保険約款を承認し…………傷害保険契約の申込を致します」との記載があり、同書裏面には傷害保険普通保険約款(以下単に約款という)の各条項が記載されており、その第二六条によると「保険契約ニ関スル訴訟ニ付テハ当会社ノ本店所在地ヲ管轄スル裁判所ヲ以テ合意ニヨル管轄裁判所トス」との規定(以下管轄約款という)のあることが認められ、右事実によると、抗告人と相手方は右各保険契約を締結するに当り、右管轄約款の如く管轄の合意をしたものというべきである。
原裁判所は、右管轄約款をもつて専属的合意管轄を規定したものであるとする相手方の主張を容れて、原裁判所には本件につき管轄権なしとし、民事訴訟法三〇条一項により、本件を相手方の本店所在地を管轄する東京地方裁判所へ移送する旨の決定をしたものであるが、右管轄約款が、いわゆる専属的合意管轄として、他の法定管轄を排除する趣旨であるかどうかは前記約款の文言のみでは明らかでないから、解釈によつて決するほかない。
およそ普通保険約款は保険会社たる相手方が多数の者と同種の保険契約を締結するにつき一々契約内容を協議決定することの煩雑な手数を省くため、契約内容を定型化して画一的な処理を行なおうとするものであつて、右約款内容は多岐にわたり詳細、周到を極め、その条項は数多に及ぶのであるが、商慣習上、保険契約は、保険契約者の約款内容に対する具体的な知、不知を問わず、特にこれによらない旨の意思表示その他特別の事情のない限り、約款に則つて締結されるものと解すべきであり、右約款の制度的、法規的性質からして、その解釈に当つては個々の保険契約者の具体的意思やこれを制定した保険会社(相手方)の意図は決定的な資料とすべきでなく、その適用が予定された保険契約者一般の合理的な理解可能性を標準とすべきものである。
これを本件管轄約款についてみるに、全国各地に及ぶことが予定される多数の保険契約者との間に、保険契約に関して生じる紛争も多種多様なことが予想されるところ、これら紛争の解決を訴訟に求めるについて、その裁判機関を常に相手方の本店所在地を管轄する裁判所に限るということは、相手方にとつて便益このうえもないことであり、この相手方の立場からみると、右管轄約款(前記約款二六条)をもつて専属的管轄を定める意図であつたろうことは推認され得なくもない。しかし、反面、一般の保険契約者にとつては、それは甚だ不便なことであり、場合により(殊に遠隔地居住者の如き)、紛争解決を始めから断念せざるを得ないに等しい結果を招来することにもなるのであつて、右の如き管轄の限定は到底一般の理解に達する所以ではない。したがつて、疑わしい場合は、むしろ一般契約者の利益に解釈すべく、本件管轄約款は、相手方の本店所在地の裁判所が法定管轄権を有しない場合にも、これに管轄権を認めた、いわゆる付加的合意管轄の定めと解するのが相当である。もちろん、このように解すると、本件の如く保険契約に関して後日提起された具体的訴訟の内容如何によつては、実際上右管轄の合意は無意味になることもあるが、これは不特定多数人を対象として複雑多岐な内容をもつ契約を定型的かつ簡易に行なおうとする約款の機能からみてやむをえないことというべきである。
以上説示のとおり、前記管轄約款は専属的合意管轄ではなく、付加的合意管轄を定めたものと解すべきであるから、これを専属的管轄の合意をしたものとする相手方の主張は失当である。
しかして、前記各資料によると、本件各保険契約において、これによる保険金支払場所はいずれも「帯広」と定められていることが認められるから、原裁判所は本件保険金請求訴訟につき民事訴訟法五条のいわゆる義務履行地の裁判籍により、管轄権を有するものというべきである。
よつて、これと異なる見解に立つて原裁判所がした移送決定を取り消し、同法三〇条にもとづく相手方の移送申立を却下することとして、主文のとおり決定する。
(裁判官 武藤英一 黒川正昭 佐藤安弘)
別紙 抗告人の抗告の趣旨および理由
抗告の趣旨
原決定を取消す。
被告の本件移送の申立を却下する。
との裁判を求める
抗告の理由
一 元来本件保険金請求の訴につき義務履行地たる抗告人(原告、以下単に抗告人という)の住所を管轄する原裁判所(釧路地方裁判所帯広支部、以下単に原裁判所という)並に相手方(被告、以下単に相手方という)の本店所在地を管轄する東京地方裁判所の双方に管轄権の存することは異論のないところでありかつ原決定の認めるところである。
二 原決定は本件の保険証券に印刷されてある傷害保険普通約款中「保険契約に関する訴訟については当会社(相手方会社)の本店所在地を管轄する裁判所をもつて合意に依る管轄裁判所とす」(以下単に管轄約款という)とあるのは、いわゆる専属的合意裁判所を定めたるものと解すべきであると断じている。
然れどもこの見解は当を得ていない。本件管轄約款はいわゆる附加的ないし競合的合意管轄と目すべきである。ここに本件に関する「抗告人(本件抗告人)札幌高等裁判所昭和四三年(ラ)第二九号移送決定に対する即時抗告事件」の理由中に同裁判所の説示するところを援用し原裁判所のした原決定に審理不尽の存することを主張する。
三 加之本件管轄約款は保険会社の一方的利益のみを目的とし被保険者の不利益を全くかえりみないいわゆる例文約款に過ぎないから被保険者抗告人を拘束しない。
四 仮りに然らずとするも本件の場合管轄約款がその効力を発生するには保険証券をおそくとも保険事故発生までに抗告人に交付しなければならぬと解すべきである。
何となれば抗告人はもととも管轄約款の存することについて何ひとつ知らなかつたのであるし、契約に際しては勿論その後も相手方代理店その他何人からも告げられたことがないから保険証券交付まではこれを知るに由ないからである。然るに保険証券は保険契約成立当時発行されているにかかわらず今日に至るも抗告人に交付されていないのである。而して抗告人は本件保険事故発生と同時に保険金請求につき原裁判所の管轄権を取得したのであるから今後において保険証券の交付を受くるも管轄約款は抗告人において事後承認をするなれば格別これをしない限りその効力を発生し得ないものというべく抗告人はもとよりかかる承認をすることはないのであるから抗告人の既に取得した原裁判所の管轄権は消滅することはない。